私の育児はこれでよいのでしょうか、など

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私の育児はこれでよいのでしょうか(昭和52年11月) 高知県土佐市講演会


 3才児の家庭教育事業がはじまって、今年で3年目です。毎年お母さん方の悩みをアンケート調査できいていますが、ほとんど結果が同じです。3才児を持つお母さんの悩みや問題点は一応出そろっていると考えてよいと思います。

 皆さん方の悩みを多いものからあげてみますと、@よくわがままを言ったり、すねたりする、Aたべものに好き嫌いが多い、B字を読むこと、数を数えることについていつ頃から教えたらいいのか、C指しゃぶりなど気になるくせがある、Dしかり方、ほめ方がわからない、E虫歯で困っている、Fおねしょ、おもらしをして困っている、Gよく病気をする、H寝つき、寝起きが悪い、I人のおもちゃをやたらに欲しがって困っている、J簡単な洋服をひとりで着たり脱いだりできない、Kどのようなおもちゃや絵本がよいかわからない、L言葉の発達が遅れているのではないかと心配である、Mテレビの影響について心配している、N親が一緒でないと遊べない、Oしつけについて家族の中の意見が合わない、P運動面の発達が遅れているのではないかと心配である、Q同じ年頃の友達と遊べない、R身体の発達が遅れているのではと心配である、S外へ遊びに行きたがらない。

 この悩みの内容を見ますと、心配しなくていいことを悩んでいるのが多いのです。たくさんのお母さんに会って話していますと、共通した誤りとか、考え直していただきたい点がありますので、それを10の項目にまとめてお話しします。ご自分の子どもについて考えてみて下さい。「私の育児はこれでよいのでしょうか」と反省してみて、もし一つでも当てはまることがあったら、直していただきたいと思います。

 @あなたはお子さんに無理なことを望んでいるのではありませんか。

 まだできないのが当然なことなのに、できるはずだと考えて、それができないと遅れているとか、困った子だとか、色々悩んでいることが多いのです。6ヶ月の赤ちゃんがまだ歩けないといって、病院へ行ったりするお母さんはいませんね。それはお誕生ぐらいにならないと、赤ちゃんんは歩けないことを皆よく知っているからです。

 では、1年3ヶ月で歩き始めたどうでしょう。それでは異常だと書いてある育児書はないはずです。正常の歩行開始は、早い子と遅い子の間にかなりの幅があるので、1年3ヶ月でも正常なのです。

 このように子どもの発達について、こういうことはどれ位ででき始めるのだ、或いは、どれ位までにできればいいのだということがよく分かっていないと、そこに悩みが生まれてくるわけで、それが正常の発達について、よく知られていない行動になると、一層問題が多くなってくるのです。

 よい例はおねしょです。

 医者の方から見ますと、3歳児がおねしょをするのは、全く当たり前のことです。3つになればおねしょはしないものだとお母さんは思っています。

 おねしょについて説明しますと、まず始めに膀胱におしっこがたまってきますと、膀胱が膨れてきます。ある程度膨れますと、膀胱がふくれてきたよと信号が膀胱から神経を通して脊髄にやっいきます。そうすると脊髄の方から折り返し、おしっこを出しなさいと命令が返ってくるわけなのです。

 そうすると、膀胱が収縮します。膀胱の入口には括約筋があります。膀胱を取りまいて括約筋と筋肉があります。膀胱のおしっこをする仕組みには二つあるのです。膀胱が締まるだけではおしっこは出ません。キュッと締まって入り口を閉めて、締め付けている門番が開けてくれないといくら待ってもおしっこは出てゆかないのです。門番がその出口を広げますとおしっこが出てきます。逆に、門番が広げて膀胱がキュッと締まるとおしっこが出てくるという二段構えになっているのです。赤ちゃんは頭までゆかないのです。膀胱がはった、脊髄にゆく、そのまま頭に行かないで折り返し、脊髄からおしっこをしろということで、所構わずたまりさえすれば出てくるのです。

 ところが、それが段々大きくなりますと、脳までゆき、脳の命令を受けるようになるのです。今度は、大人の方を考えてみますと、それは膀胱がはっても、膀胱がはったよという刺激が脊髄に行きます。それから脳に行きます。脳のおしっこを出す命令系統まで行きましても、又膀胱が一杯でなくても、早く出しなさいという刺激を出しておしっこを出すということができます。まだ充分に溜まってなくてもおしっこを出すということができます。おしっこが一杯になっても、自分が辛抱しようと思ったら辛抱できます。これが大人です。全然何もなくて、ある程度溜まったらパッと出るというのから、自分の意志で止めることができ、或いは早くすることができるという自由自在に操ることができるまで、かなりの段階があるのです。その段階を子どもは年齢と共に歩んでいるわけなんです。

 ところが、お母さんはある程度子どもが口がたって、何だかんだと言うようになると、もう一足飛びにおしっこがどうでも自分の勝手にうまくいけるようになると思うようになるのです。ところが、実際はこういうことがうまくできるようになるには満4歳にならないと、うまくいかないのです。満4歳になって初めてうまく行くのです。

 ただ単におしっこをするということだけでも、そんなに内容は簡単なものではなくて、いろんな仕組みがあって、それがうまく釣り合い、初めておしっこがきれいに出てくるのです。そういうことがきれいにできるのは4歳でなければできないのです。ですから、それをいきなり三歳の時点で寝小便をするなとか、昼でも失敗をするなとかいうのは無理で、それは当然のことなんです。保育所へ来ている子どもでも寝小便をする子どもは統計によって多少の差はありますが、四十〜六十%です。時々おもらしをするという子は、半分から半分以上いると言うことで、むしろするという方が当たり前なのです。小学生ではどれぐらいでしょうか。1年から6年まで入れて十%ぐらいです。大人はほとんどありません。ということは、ほとんど皆が治ります。ただそれが早いか遅いかということだけなんです。

 それで3才児が時々寝小便をしたり、昼でもおもらしをするなどというのは無理もないことなのです。事実、4〜5歳児で40〜60%、小学生でも約10%は時々寝小便をしているという統計があります。ところが、先程申し上げたアンケートでは、3歳児のおねしょがいつでも上位にある悩みなのです。

 先ほどお話しした歩くことや、言葉の問題にも同じようなことがあります。言葉の言い始めはだれでもうまく言えない。どもってみたりする。歩く方ではよたよたしてもビクともしないお母さんが、しゃべる方では「これはどうもいけない」「これはひょっとしたらどもりではないだろうか」「どうも言葉が遅れているらしい」と受けとめるのです。それでお母さんは一生懸命気をかけるようになるのです。そうなるとかえって難しい問題が出てくるのです。

 言葉というのは最初はやりそこなっていくのが当たり前であって、段々と経験を積むことによって言葉もうまく言えるようになってゆくのです。それを承知してゆっくり待てばよいのですが、遅れているらしい、もっと教えなければならない、どうもどもるらしいと考えるのです。そして、育児書を見ると、どもる子どもの直し方は深呼吸をさせて、ゆっくりと言い直させなさいと書いてあります。じゃ、うちの子どもの早速そうしなければならないと思って、せっかく子どもがものを言いかけると、

「待って!待って!そこで止めて、そこで大きく深呼吸して、あんた何を言いゆうぞね。ちとおかしいやいか。もう一度お母さんに言うてみなさい」と言い、言い直させる。子どもは何かを言おうとすると、いつもお母さんにストップをかけられて深呼吸をさせられるので、いやになって話をしなくなるとか、そのいつも叱られる言葉が出かかると自分の方が先に緊張するものだから、よけいにその言葉が出なくなる等が起こってしまうのです。

 2、3歳児の言葉の言い始めのどもりなどは直さないで、大人がゆっくり言ってやる。そして、うまく言えた時はほめてやるのです。その時その時に「そら、あんた又間違えた。もう一度言ってごらん」というやり方は一番いけないのです。かえって、どもりにしてしまうのです。

 アメリカのインディアンの種族でどもりがないという種族がありますが、有名なので、ある言語学者がその種族の中に入り込みまして、一年あまりもその中で生活して調べた報告書がありますが、その種族にはどもりがないのではなくって、結構どもっているそうですが、その種族にはどもりという観念がないのです。だから、どもっても平気でいるわけですし、誰でも変に思わないのです。ちょっと言い損なっただけだと思っているわけなのです。

 どもりというのは、親がどもりと思い始めたとき、始まるのです。日本のどもりの大部分は親がつくった病気です。どもりは言葉の発達の自然の姿であるということを親が承知していれば、みじめな結果に終わらないで済んだということです。

Aあなたのお子さんらしい個性ある道を進むよりも、どこにでもいる一般的な子である方がよいと考えますか。

 子どもでは個体差というものが大人よりはっきりしています。あなたのお子さんには、あなたのお子さんらしい発育、発達の道があるのです。

 しかし、育児書には特にあなたのお子さんについては書いてくれてありません。一般的な、平均的な姿だけしか出ていないのです。又、同じ年でも、よその子には又その子の道があるのです。睡眠時間、食事の量など、何をとり上げても皆それぞれ違う道を歩んで成長してゆくわけです。

 お子さんの個性を認めて、大らかに成長を見守ってやりましょう。遅れているところもあれば、反面どこかに早いところもある筈です。何でも標準以上にと欲張ると、反って子どもを駄目にしてしまいます。慎重が低いという悩みも大変多いのですが、病気を考える位小さい子にはめったに会いません。小柄でも元気で、ちゃんと活動できればそれで結構じゃありませんか。とにかく、身体的にも、精神的にも、個性を認めて、それを伸ばすように努力することが大切だと思います。

 寝姿にも個人差があります。食欲にしてもそうです。非常に食べないといけない子と食べなくてもいい子があります。食べる子どもについて心配して相談に来るお母さんはあまりいませんが、近頃は肥満児があり、それで相談に見えるお母さんもありますが、大部分が食べないお子さんをお持ちのお母さんです。ある幼稚園で入園の時、アンケートを取った結果ですが、お宅のお子さんは食欲はどうでしょうかと聞きますと、六十何%のお母さんがうちの子どもは小食と答えています。大多数があまり食べないということは、その年代はあまり食べないということですね。

 食欲においても個人差があるのです。あまり食べなくっても、身体が標準並にふとってゆき、元気に遊び回って、ろくに病気もしなければ、それで結構なのです。それで食べなければ、経済的にも助けているわけで、大変孝行の子どもで親は喜んでもらいたいわけなのですが、それがお母さんは気に入らないので、もっと食べなければいけないのだと思い、どんな育児の本を見ても、隣近所を聞いても皆もっと食べている。しかし、うちの子どもはあまり食べないと言って心配し、食べなければいけない、いけないと言って、ご飯を食べるときは親が叱咤激励する。子どもは逃げることばかり考えてしまうような場になってしまうのです。それでは益々子どもは食欲がなくなってしまうのです。

 そういうふうに非常に個体差があるということ、能力というのは全部そろってゆくものではありません。例えば、10カ月頃から歩き始めた子どもは、うまいことできたものでたいていが口が遅いのです。ところが、口が早い子どもは1年3カ月ぐらいでやっと歩き始めるというように、点は二物を与えずといって、2つそろった子どもは珍しいのです。ところが、お母さんは悪いところばかり比べてしまいがちで、個体差があるということを考えないのです。これが大きな問題ででてくるわけなのです。

 身長にしても、体重にしても、これも非常に個体差があるのです。同じ量の乳を飲んでも、どんどん肥って困る子どもと、さっぱり肥らない子どもがあるのです。或いは背が伸びる、伸びないということはかなり体質的な生まれついた素質というものがあるのです。みんなが同じ量の乳を飲んでも同じようにならないのです。

 育児で一番大切な自分の子どもの個体、個性をよく見つめて、肉体的にも精神的にもその個性というものを見つめて、それをよく伸ばすように努力するということが一番大切なことです。その個性を失するようにしてはいけないのです。

B他の子と比べることが、子どもにとってよい励みになると思いますか。

 他の子と比較して考えることをやめましょう。よその子は素質も、環境もみんな違うのです。自分のところのきょうだいでも比べてはいけません。特に叱るときに、よその子やきょうだいを引き合いに出して叱って、それで良いこと一つもありません

C子どものしつけは、親が口で言いきかせてするものでしょうか。

 家族の人たちが毎日毎日その子の目の前でやってい見せていることが一番のしつけなのです。歯みがき、手洗い、食事のマナー、偏食・・・いずれも良いお手本があれば良くなり、わるいお手本があればすぐその真似をします。自然に子どもが親の望む方向になってゆくような家庭であることが思想的なわけです。子どもは耳からよりも、目から多くを学びとっているのです。

D自分のいやだった思い出を、自分の子どもにも作り上げようとしてはいませんか。

 特に叱り方には気をつけましょう。長いお説教、難度も何度も繰り返される小言、一方的な大人のとり上げ方、ひどい刑罰など、誰でも子どもの時の嫌な思い出がありましょう。自分が嫌だったことは、子どもも嫌です。カッとなって叱っていても、叱られる方の立場にもなってブレーキをかけてやって下さい。

E子どもをほめるよりも、叱った方がよく伸ばせると思っていますか。

 ほめて伸ばすということが、子どものしつけのコツです。危険なことや、絶対してはいけないことは、きちんと叱らねばいけませんが、その他は叱って良いことはほとんどありません。 

 子どもはほめて直さなければなりません。それのよい例として、寝小便を直すのにカレンダー療法というのがあります。カレンダーに印を付けるというのです。カレンダーに印を付けてくださいとお母さんに言いますと、たいていのお母さんは失敗した日にカレンダーに×をつけるのです。私達の言うカレンダーに印を付けてくださいというのは、成功した日に○をつけて下さいというのです。大人の頭で考えると○であれ×であれ同じですね。ところが、子どもでは大違いなのです。×をつけられるのと○を入れられるのとは違うのです。

 子どもを伸ばしたいと思うならほめて伸ばして下さい。伸ばしたくないのは、知らん顔をするのです。無視するのです。ある程度止めるとかえっていけません。

 よい例は、性器いじりです。止めるからよけいにいじります。彼らにとって、耳をいじるのと性器をいじるのとは、そう変わったことではないのです。止めさせたいと思うことは知らん顔をして無視することで、たいてい止めてしまいます。爪かみ、指しゃぶりにしても同じことです。子どもの困ったくせは大部分が大人になったら止まるのです。直すのに、いろいろの事をして、そのために他の障害をつくってしまっては何にもならないのです。

F子どもの時に病気をすることは、子どもにとってそんなに悪いことでしょうか。

 子どもが大人より病気をし易いのは、抵抗力も弱いし、当たり前のことのはずです。いろんな病気にかかって、病気と闘う手段を体得し、免疫力を作り上げて、病気にうちかつ力を自分で養ってゆくのです。子どもの健康はその子の一生を見通して考えてやらなければなりません。

 ところが、お母さんはそれから逃げさせようとする、そのことが子どもにとってかえって不幸なのではないでしょうか。私達が健康というものを考えるとき、子どもの時に健康であればいいというものではありません。大人になっても少々の病気には負けなくて、きちんと仕事ができ、一生健康で病気に対して負けない人を大人に作り上げたいのです。

 そういう大人にするためには、ある程度病気を経験させることが大事なことです。病気に対して訓練するわけです。だから、しょっちゅう風邪をひくとか、お腹をこわすとかいうことは、これは一つの訓練だと思っていればよいことで、鼻一つたらさない、咳一つしない、腹を一度も下さないような子どもは気持ちが悪いですね。いろんな病気を経験させて、病気を切り抜ける術を子どもに持たせることも大切なことだと思います。何一つ病気をさせないで、病気から逃げることは間違いという事です。

G表に出た症状を治せば、原因は問題にしなくよいでしょうか。

 かみつき、赤ちゃんがえりなど、いま出ている困った癖を治すことばかりに夢中にならずに、なぜこの子はこんなことをするようになったのかということを考えてやりましょう。今していることを叱りつけて直しても、原因がそのままでは、きっと違った形で又出てきます。

H子どもと遊んでやるのはバカらしいことだと思いますか。

 子どもにとって一番嬉しいことは簡単で、手近にあるのに、それをしてあげるお母さんが少ないのです。子どもと同じレベルになって、毎日一寸の時間でも一緒に遊んでやりましょう。どんなおもちゃを買ってやるよりも、それが一番良いごほうびだと思います。

 日本のお母さんは愛情の表現が下手だと言われていますが、どうか子どもに対する愛情の表現は十分な演技でいつもやってあげて下さい。自分がこうしたいと思っていることを、子どもがちゃんとやってくれた時などは、いつでも同じようにほめてあげて下さい。

I強く、たくましい子どもになってもらいたいとは思いませんか。

お利口な子どもとか、要領のよい子に自分の子どもをしたいと思っていますか。決してそうではないと思います。たくましい子どもに育てたい。これは皆に共通した願いだと思います。しかし、今の世の中でたくましい子どもに育てるためには、やはり努力をしないとたくましい子どもにはできない。たくましい子どもとは鍛錬をしないといけない。これは親の方が積極的な鍛錬を考えなければ、どうしてもたくましい子どもにはなれません。どんなことでも結構ですから、子どもと一緒に鍛えてゆく。たくましい子どもに育てるということを今後力を入れてやっていただきたいと思います。

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育児の原点 (昭和58年) 高知県社会教育科家庭教育事業


 最近子どもについてショッキングな報道が大変多くなっています。構内や家庭内の暴力事件、自殺、少年非行の増加と低年齢化など、毎日のように新聞紙上を賑わしています。又、事件にならなくても、登校拒否・無気力・骨折その他いろんな身体のおかしさもよく指摘されています。これらの中には、昔に比べてそれほど増えたとは言えないものや、しっかりした裏づけのないこともありますが、とにかく子どもの心や身体に、今までとは違った心配が増えて来ているのは事実だと思います。社会の明日をになう子ども達のこんな姿に、多くの論議が行われていますが、現在の子どものおかしさをどうすればよいかということは、本文の質問にもいろいろ出てくると思いますが、正直言って特効的な良い方法はありません。いづれも並々ならぬ親子の努力と忍耐が必要です。しかし、何故こんなことになったかその原因を考えて、今後の発生を防ぐことがより重要なことであり、治療の基本でもあります。多くの例でその原因をたどってゆきますと、問題になっているのは小学生や中学生であっても、その根源は殆どすべて、小さい乳幼児期の育て方にあることを痛感します。

 問題の子をつくらないためには、どんなことに気をつけたら良いか。家庭内暴力の子を例にとって育児の基本を考えなおしてみます。

1.どんな子が家庭内暴力をおこすか。

 多くの人が次の点を共通点としてあげています。

 @子どもの性格は小心、臆病、律気、神経質といろいろですが、幼時、良い子だと言われた子が意外に多く、どちらかというと常に緊張した状態におかれている子が多いのです。

 Aどの子にも共通していることは、進学に失敗するとか、成績が下がって強く叱られるとか、何らかの形で心に打撃をうけた経験があることです。

 Bお母さんの性格も似通った点が多く、完全癖や子どもへの過度の期待が目立っています。母と子の分離がうまくゆかず、余りにも子どもにぴったりくっつきすぎた母親が多いのです。

 C父母の不一致。教育は母親の責任と逃げながら、陰では批判的な口をきく父親、肝心の所で父親らしい権威を発揮できぬ父親など、最近は特に父親に注意が向けられています。

2.防ぐための10のポイント

 @育児目標をはっきりと

 わが子をどんな子に育てたいか。両親がきちんとした目標を持ち、共通の理解の下に進むことです。わが国の育児の最大の欠点はこの目標がはっきりしていないことだと思います。目標はあくまでも、人間形成の上におくべきで、進学や経済の安定が目標でないことを忘れないようにしましょう。

 A子どもを自然にのばそう

 知識や機械の発達が育児を楽にすると共に、自然の発達を歪めてしまっていることがよくあります。もう一度原点にもどって、子どものヒトとしての発達を自然の姿に返しましょう。又、出来るだけ環境の面でも自然を多く与えるように努めましょう。

 B親子関係をしっかりと確立しましょう

 ただ生んだから、おむつをとりかえたり、乳を与えたりしたから、一緒に住んでいるからだけでは、親子の結びつきがしっかり出来るとは限らないことが分かってきました。目と目のみつめ合い、スキンシップ、温かい調子の母の話しかけなど、多くの注意があげられています。保育所に早く出す母親が増えていますが、母と子の結びつきには一層気をつけましょう。

 C反抗期を大切に

 3歳前後と中学高校の頃に2つの反抗期があることはご承知の通りです。その間に小学校に入学する頃の口答えの時期もあります。いづれも成長の大事な課程で、この時期を経験することによって親も子も成長してゆくのです。家庭内暴力の子には、この反抗期の経験のない子が多いのです。

 D良い子の反省

前に共通で、良い子と言われた子が多いことをのべました。良い子良い子と言われることは、子どもの心にかなり大きな負担をかけ、子どもらしい欲望と大人への迎合との争いがつづき、適当なはけ口がないままに、だんだんと不満がたまり、とうとう異常な形で爆発してしまうのです。保育所などでも、保母の言うことを聞き、大勢のする通りについてゆきさえすれば、良い子とほめられれてしまうので、自主性がなく、無気力に他人の言うままになる人間が出来るのだと言う人もあります。あまり大人に、或いは親に都合の良い子をつくりすぎてはいないでしょうか。

 Eたくましさを養なおう

挫折に強い、敗北に耐えられる子こそ本当にたくましい子です。少々の失敗に負けず、何くそと起き直ってくる気持ちが大切です。そのためには、スポーツや兄弟げんか、友人との遊びで小さい挫折を経験させることが大切です。又、どんなことでもよいから、必死になってやることの体験をさせることも重要だと思います。

 F甘えと自立心

 暴力をふるうのも一つの甘えです。正常な形の甘えを経験させてもらわなかったために歪んだ形で出てきてしまったのです。甘えと自立とは相反するものではありません。甘えの気持ちが満足された後に自立の心がわいてくるのです。母が子どもの心をしっかりと受けとめ、包みこんでやることが自立の基礎です。母親が先に先にと子の求める心を先どりしてしまって、本当の甘えを体験させてないのが自立を妨げるのです。又、入試に落第したりした失意の時にこそ母は必要です。子どもが母を一番必要とする時に、批判したり、さげずんだりしてつき放してしまってはいけません。

 G子どもを叱れる親

 叱る前提として、親子の信頼関係の確立がまず必要です。これさえ出来ておれば、叱ったことが原因で困った問題は起きてきません。小さい時からストップの訓練をすることが大切で、小さいからといって見逃し、大きくなってからあわててももう難しいのです。叱らなければならぬことは、いつでも叱り、叱る時は本気で叱りましょう。子どもの心の中には、叱ってくれることを望んでいる一面があることを知っていなければなりません。

 H聞き上手になろう

 親子の対話が大切なことは言うまでもありませんが、それには親が聞き上手になることが大切です。子どもの話は冗慢で、勝手なことばかり言って、親の望む肝心のことは言わないものです。そこを辛抱して聞いてやることです。親の聞きたいことばかりを、性急に聞いて話をさせようとすると、子どもはもう黙って話さなくなります。まず親子の楽しい会話の習慣を作りあげることが先で、そのためには親が聞き上手になるための工夫と辛抱が必要です。

 I親の協力

 何といっても両親のチームワークが大切です。どうしても2人の間には多少の食い違いが出てくるのが当然ですが、お互いに補い合い、助け合って育ててゆきましょう。親と子が、お互いに自信と信頼を持って生きること、それが育児の原点だと思います。

(註:本文中「家庭暴力児」についての項は、山田順子著『両親とは何ですか』(少年問題研究会刊)に教えられるところが大きく、参考にさせていただきました。この問題で悩む方々に是非ご一読をおすすめします。)

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子どもにかえそう子どもの世界  子ども社会の復活をめざして(平成2年 ) 高知県社会教育科家庭教育事業


このテーマを選んだわけ

 昨年夏パリで開かれた国際小児科学会議に参加しましたが、まだ世界では5歳未満の子が毎日4万人も死亡し、栄養失調で心身に障害を負う子が年間800万人を下らないなど、日本では想像もできない事実が次々と発表されて驚くと共に、日本の子どもがいかに恵まれているかという個とをつくづく感じさせられました。

 ホテルに帰ってからも、わが国からの参加者の間でこの話題で話がはずみましたが、では日本の子どもは本当によい環境の中で育てられているといえるのかどうかということになると、皆首をかしげてしまいました。参加者の中にアフリカや東南アジアに医療活動に出かけている人たちもいましたが、そんな地域の子どもがおかれている厳しい医学的な環境の話の後で、しかし、彼等がちゃんと子どもの世界を持ち、のびのびと子ども時代を楽しんでいるのは羨ましいよと結んだのが印象的でした。日本の子どもの現実についていろいろと話が出ましたが、結局一番問題なのは、日本の子どもからだんだんと子どもの世界が奪い取られていることがという結論になりました。

 今年のこの事業のテーマを決める委員会を2回開きましたが、ここでも同じような結論が出たのに驚きました。先は小児科医だけの話し合いでしたが、今度は色々と立場の違う人たちの間で、やはり同じことが指摘されたということは、このことが色んな角度から見ても、放っておけない事実としてとり上げられるようになったということだと思います。そして、その原因が社会や大人の子ども社会への過干渉によるということは明らかです。といって、昔の子どもの世界は良かったと何もかも昔の子ども社会に返そうというのでは勿論ありません。社会の移り変わりや科学の進歩によって、人間の生き方が時代とともに変わってゆくのは当然のことで、子どもだけがその波を避けることは出来ないことです。しかし考えてみますと、その社会の変革を実際に作り上げ、科学の進歩を生活にとり入れてゆくのはすべて大人たちです。その大人たちの頭の中にはたして、どれだけ子どもへの理解と思いやりがこめられているのでしょうか。子どもの健やかな成長を願い、成長後の安定した生活の確立を願わぬ親はありませんが、人はただ早く大きくなり、収入の良い、安楽な人生が送れたらよいのでしょうか。本当に健康で、幸福な人生を送らせるには、もっと充実した子ども期を過ごさせてやる必要があるのではないでしょうか。いま、私たち大人が子ども達に加えているいろんな干渉の中には、要らぬもの、かえって害になるものがいくつもあるのではないでしょうか。

 今年はこんなことを反省し合い、皆で話し合って、誰の心の底にも大事にしまわれている、あの「みずみずしい、楽しい子どもの世界」を子どもたちにかえす努力をしてみたいと思うのです。

子どもの成長を自然の姿で

 子どもの一番の特質は、心身ともに著しく成長してゆくことです。そして、一日も早い成長を願う親心は誰も同じですが、子どもの成長には順序と自然のコースがあることが、ややもすれば忘れられています。子どもの成長を促す大きな因子として、ヒトという動物の遺伝因子による成長の促進(成熟)と、教育や訓練による成長の促進(学習)の2つがあげられています。人間の多くの能力はこの2つの因子がさまざまに組み合わさって伸ばされてゆくものですが、それぞれにその成長に適合した時期や限界があり(感受性期と臨界期)、どんな時期にでも学習を加えたら、それだけ発達が早まるということはありませんし、それどころでなく、かえってその後の発達が邪魔されてしまうことさえあるのです。世界で最も有名なスポック博士の育児書の冒頭には「赤ちゃんは自然に育つものです。両親は子どもが発育という予定の軌道を進むのを見守っていればよいのです。時々おこる邪魔やまちがった道へ入りこむのを見守っていればよいのです」と書かれてあります。これが育児の基本姿勢であり、最も大切なことだと思いますこういう眼でみると、今の日本の子ども達はずいぶん要らぬお世話を焼かれているようにみえます。歩行器、うつぶせ寝、舌小帯切断、離乳期用ミルク、ベビースイミング、いろんな早期教育など、今一度その必要性について考え直してみなければならないように思います。

アレルギー性疾患の増加  子どもの食生活を見直そう

 最近はアトピー性皮膚炎や気管支喘息などのアレルギー性の病気が子どもに増えています。なぜこんなにアレルギーの子どもが増えたのでしょうか。文化度が高まるにつれてアレルギー性疾患が増えるといわれますが、この時の文化度とは自然に対して人為的な操作が加えられる度合いと置きかえてもよいと思います。大気汚染と室内環境の変化、ダニやカビの増加、ペットの変化、精神的ストレスの増大など、色々の理由があげられる中で、最近特に食生活の変化に注目されていることはご承知の通りです。

 食物は毎日口から直接体内にとり入れられるものだけに、その影響力は大変大きいのですが、自然に対する人工的な操作が最も加えられている部門であることが一層拍車をかけています。生後一カ月以内で、一度も人工乳を与えられず母乳だけで育てられる子は半数に足りません。人工乳にはその製品の特色を出すためにいろんな理由をつけてたくさんの物質が加えられています。離乳期にはこれ程必要だろうかと思うほどのベビーフードの氾濫がある上に、今まで9カ月からといっていた離乳期用のミルクが、中身は同じなのに急に6カ月からと売り出されています。食品の中に加えられる食品添加物は増える一方で、幼児期から多種多様の添加物を食べさせられます。子どもの食べるお菓子やインスタント食品、ジュースにも情け容赦なく添加物が加えられ、中にはソフトクリームなどのように、ほとんど化学物質の塊のようなものまであるのです。子どもに与えられる食品が、子どもの健康よりもその経済価値を重視して作られているような感じさえあるのです年齢が小さいだけアレルギーをひきおこす物質(アレルゲン)を処理する能力が低いので、当然小さな幼児期の方に食物性のアレルギーが多くなっています。その対策として一番大切なのは、そのアレルゲンを含む食物を食べさせないことで、除去食療法というやり方が行われます。口でいうと簡単ですが、実際にはなかなか大変なことで、1つのアレルゲンが食べられないだけでもかなり多くの食物の制限が必要です。実際には幾つものアレルゲンを持っている子が多いので、その制限食は実は沢山です。自由に食べる喜びを奪われた子どもたち、ことに保育所や学校の給食を友達と同じように食べられない子どもたちが受ける打撃は、栄養面に限らず、心の発達の面でも大きいものがあるのではないかと心配です。ところが、わざとその制限食を子どもに強制している親がいます。はっきりしたアレルギーがあって制限されるのは仕方がないことですが、親の勝手な判断で、確かな診断も受けずに制限食を与えている親が意外に多いのに驚きます。

 大人は子どもの食生活について、もっと細かい配慮と責任を持たねばならないのではないでしょうか。子どもは自分の手で食物を作ることも、選ぶことも出来ません。ほとんどすべて大人に依存して食生活を営まざるを得ない子どもたちに対して、大人の文化が与えている大きな生涯の一例としてアレルギーの問題をとり上げてみました。

きょうだいの大切さ

 今年の5月5日に発表されたわが国の子どもの人口は戦後の最低を記録しました。戦前は総人口に対して36%前後で安定していた子どもの割合は戦後減少をつづけ、今年はとうとう18・5%にまで下がりました。人口学者の計算では今後もさらに下がって、5年後には17・6%位になるとのことです。高知県は今すでに17・9%で、全国のビリから2番目です。若い人口の減少は国の活力を奪い、その前途が心配されていますが、将来はともかく現在の子どもにとっても、歳の近いきょうだいがいないことは大変深刻な問題です。子どもは最も身近な他人であるきょうだいを通じて社会性を身につけ、色んなことを学んでゆくのです。皆さんの子ども時代を思い返して下さい。きょうだいとの楽しい思い出や、多くの教訓がすぐ胸に浮かんでくることと思います。子どもの世界を作り上げる大きな立役者であるきょうだいを、子どもに与えないことも子どもに対する親の努めを果たしていないといわれても仕方がないのではないでしょうか。

 子どもの世界を豊かにするのには多くの面での大人の反省と協力が必要です。小児科医という立場から私の気になる2、3のことがらをとり上げてみました。昔とは比べものにならぬ位に豊かで、住み易くなった現在の日本で、なぜ子どもは楽しい子どもの世界を持てなくなっているのでしょうか。皆で話し合って、より良い子ども社会を子どもにかえしてやるために力を出し合おうではありませんか。

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子育ては誰が (平成2年 ) 高知県社会教育科家庭教育事業


出生率の低下と育児の重荷

 1・57ショックという流行語が出来たほどに騒がれた、わが国の出生率の低下が今年はさらに進んで、女性の生涯平均出産数(合計特殊出生率)が1・53になってしまいました。この数字が2・一程度でやっと現在の人口を維持出来るのですから、このままでは2十年位先にはわが国の若い人口が減少してしまいます。若い人口の減少は、単に若い労働力が減るということだけでなく、新しい文化の進歩に対応出来るフレッシュな頭の持主が減るということですので、本当に大へんな問題です。

 なぜこんなにわが国の出生率が下がってしまったのか、女性の高学歴化や社会への進出が増えるにつれて、結婚年齢が高くなったこと、独身女性が増えたことなど、色々の原因があげられていますが、一番問題なのは育児の負担が重くなった、あるいは重く感じるようになったということだと思います。育児が楽しくて希望に満ちたものであれば、もっともっと多くの親が子どもをたくさん持とうと考えるでしょうが、実際は育児は辛い、負担の多い仕事だと感じている親が多いことが、子どもの数の減少に結びついていると思います。

なぜ育児が重荷になったのか

 では、なぜ育児が重荷になったのでしょう。高学歴時代を迎えて、ほとんどの子が高校に進み、大学へ行く者も昔とは比べものにならないほどに増えました。そして学生生活もすっかり様変わりしてしまい、子どもを一人前にして社会に出すのに大変お金がかかるようになりました。生活が豊かになるのにつれて、出費は増えるばかりですから、この育児に対する経済的負担の増加が、出生率低下の大きな因子であることは否定出来ません。

 しかし、私はこんな経済的な因子より、親特に母親の心理的負担の方がもっと大きな因子として働いているのではないかと感じております。昔は、育児というのは母親にとっては最高の責務であり、そのためには自分のすべてを投げうっても悔いがないという姿がありました。ところが、その育児の価値そのものが揺らいでいます。女性の高学歴化、社会進出とともに、女性の生き甲斐についての考え方が変わってしまい、育児が女性にとって唯一の生き甲斐とはとても言えなくなってしまいました。育児がそれ程重要な仕事でなくなったのでなくて、育児以外にも女性にとって大切な者がたくさんあることが分かったので、育児の価値が相対的に下がってしまったというわけです。

 育児の重さが下がったら、育児についての心の負担が軽くなったかというと、全く反対に育児の心理的負担は、重くなる一方です。子どもを5体満足に育て上げ、親の仕事をつがせることが出来たら、それで良いと考えられた時代に比べて、現在の母親の背負っている責任は比べようがないくらいに重くなってしまいました。だれでもが、力次第で最高学府まで行って、出世コースを進めるという有り難い世の中になったことが、母親の肩に大きな負担をかけることになってしまいました。親や子の素質や能力を超えた期待に明け暮れる毎日は、親子のいずれにも大きな心理的な負担をかけてしまっています。しかも、その成果についての評価が、ややもすると母親にばかり集中してしまう現実は、一層育児を苦しい、辛い仕事にしてしまっているのです。

育児における家族の役割

 いうまでもなく、育児は母親一人の仕事ではありません。父親はもちろん、祖父母も兄弟にも、家族の皆がそれぞれ大切な役割を担っています。もちろん、赤ちゃんは母親でなければ産めませんし、年齢の低い間は何といっても主役は母親です。しかし、年齢が大きくなるにつれて父親やその他の人の出番が増えてきます。父親には母親のパートナーとしての役目のほかに、父親でなければならぬ役割があります。そして、子どもの成長につれてその責任は重くなってきます。自立心を養うこと、社会性を育てること、人間の生き方を教えることなど、本当に大切な仕事がいっぱいあるのです。祖父母は自分の子とは違う、ある距離を持つことで、客観的な評価も下せますし、時には厳しい指南番となり、時にはやさしい避難港ともなって、大切な役目を果たすことが出来ます。最近は育児における兄弟の意義が見直されてきました。同じ立場に立つ仲間であり、助っ人としての優しい面とともに、競争相手、けんか相手としての厳しい面を併せて持つ、最も身近な他人として、子どもの成長にとって非常に大きな役割を持っていることが、兄弟を持たぬ子が増えたことで、改めて再認識されてきたのです。

現実の姿は

 母親の社会進出、核家族化、兄弟の減少など、家庭環境の変化とともに、家庭の教育機能は低下の一路を辿っているように思います。仕事に出ない母親のいる家庭でも、電化製品などのおかげで、家事にかかる時間や労力が節減されたにもかかわらず、育児にかける時間が増えたようには見えません。その根本はやはり、育児についての意識の変化だと思います。

 育児は親や家庭だけがやるものではなく、社会も大きな責任があることはいうまでもありませんが、だから家庭の育児機能は下がってもよいというわけには参りません。手洗いとか挨拶というような、当然家庭でしつけるべき基本的なことまで、保育所や学校が教えるべきことだと思っている親が増えているのに驚いています。

 家庭における父親の位置が、昔と大へん変わってきたことも事実です。往年のような家長としての権威が認められなくなったのに比例して、家庭における責任感が薄らいできたようにみえます。会社や仕事に避難して、めんどうな子育てから手を抜きたい父親が増えています。一方、こまごまと熱心に子どもの世話をする父親も増えていますが、母親代わりの仕事ばかりしているような感じを受けます。子どもに母親は2人は要りません。父親らしい仕事をしてくれる父親が要るのです。

 保育所での集団育児というのが、今は主流になって、家庭ばかりで育てられる子は珍しくなりました。幼い時から集団で育てることには、いくつかの利点があげられているとともに、多くの欠点が指摘されています。1番困るのは、子どもの個性になった育て方が出来ないことです。個性の尊重は育児の大切な基本ですから、仕方がないでは済まされないと思います。安全第一、管理保育の傾向がだんだんと強くなり、個性への配慮が一層薄らいでいるようにみえるのは残念です。それだけに家庭での、個性をみつめたフォローが一層大きな課題となってくるのです。集団で育てると自立心が養えると思っている人が多いのですが、事実は返って妨げられている例がよくみられます。自立のためには、親への甘えや信頼が確立されることが前提であることを忘れてはなりません。

 子ども時代は人生に一度しかなく、しかもその人の一生を支える基盤となる重要な時期です。親のちょっとした努力や心遣いだけでも、思い出の多い、楽しい子ども時代を作り上げてやることが出来ます。子育ての責任はだれが持つべきかなどと難しく考えようというのではありません。現在おかれた状況の中で、どうすれば子どもに少しでも良い育児環境が与えられるか、子どもの周りの一人ひとりの役割はどうか、どうすればもっと育児を楽しいものに出来るか、皆で考え直してみようではありませんか。

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小児成人病物語(準備中?)


これからの集団保育


 保育の基本は何といっても乳幼児を健康に育てることであって、他の面でどんなにうまくいっても、健康でなければ意味がないことは申し上げるまでもありません。では健康とはどういうことでしょうか。1946年、WHOは健康について『健康とは身体的にも精神的にも又社会的にも極めて良好な状態であって、単に病気や虚物がないというだけではない』という定義を下しています。このように精神的な面や社会的な適応まで考えているのが新しい面ですが、集団保育において現在最も強調され、重視されているのが、この方面であることはすでに皆さんご承知の通りであります。

 では現実に、健康というものをどのように理解し、どのようにその実現をはかるのかということから集団保育の問題を取り上げ、今後の方向を探りたいと思います。

 一、健康の個人差

 まず、第一に健康というのは絶対的な概念ではなく、相対的な概念であるということをよく認識する必要があります。健康な子どもというと、咳一つしない、頭痛一つもない子どもをすぐ思い浮かべるようですが、このような完璧な子どもというのは、この世には存在しません。寒ければ咳をし、水ばなを出し、暑ければ汗をかき、時にはかぜをひき、熱を出しながら、この世のさまざまな刺激、ストレスに対して対応し、順応して生きてゆくのが人生であります。

 このストレスに対する対応の仕方に個人差があり、同じ刺激に対してもある子は強く反応し、ある子はほとんど反応を示しません。例えば、寒い目にあうという刺激が加わったとき、ある子はゼロゼロとのどをならす喘息様気管支炎という状態になるのに、ある子は水ばなを少したらすという位のことですんでしまう。では、このゼロゼロとのどをならすのが病気で、水ばな程度のが健康であるかというと、そうは断定できません。ゼロゼロとのどをならし、熱を出し、機嫌も悪く食欲もないという状態になると、これは病気として取り扱わねばならないが、同じくぜらぜらいっても、元気で、機嫌もよく、食欲も普通であれば、これは病気として取り扱う必要はないのです。この間にははっきりした区別はなく、程度がだんだんに変わっているだけです。つまり、病気といい、健康といってもその間にはっきりした区別があるわけではなく、程度の違いがあるだけでなのです。従って、寒い日にあえば、すぐぜらぜらとのどを鳴らす子はその子なりの反応の仕方で、寒いという刺激に対処しているわけで、それでその子の生活ペースがくずれなければ、それはその子にとっては健康の範囲内のことであって、病気とは言えません。

 このように刺激に対する反応に違いがあるのを子どもの体質といっています。健康というのはその子どもの体質に基づいて、さまざまな健康があるのであって、決して一つの理想的なパターンでひっくくってしまうような、総括的な健康というものはないのです。この子どもはその体質に応じてそれぞれの健康があるということが、子どもの健康を考える上での根本原則であす。この面から集団保育を考えると、多くの問題点が浮かび上がってきます。

 子どもは動的な程、この個性的な相違が目立ち、その取り扱いもそれぞれの子どもに合わせて個性的なものでなければなりません。集団保育の最も根本的な欠陥はこの点にあり、この個性的な保育をいかに実現してゆくかということが、動的な乳幼児保育において最も大切な命題であります。それには、もちろん充分な人手や施設が必要ですが、最も大切なことは、子どもの発育や反応には個人差があり、その個人差の上に、それぞれの子どもの健康が打ち立てられるのだということを保育者がはっきりと認識することです。

 Groteという人は「無数の人間があるように健康も一様でない」と言っています。すべての人に共通する尺度はなく、育児書或いは教科書にのっているのは、その平均的な数字にすぎないということです。発育についても、睡眠についても、或いは食事についてもいろいろの数字があげられ、説明されています。しかし、これはあくまでも平均にすぎません。実際に生きている子ども達はこの平均の上を行き、或いは下を行く程に変異を示すのであって、その生活にも発育にもその子ども固有のリズムがあり、それは最も尊重されなければならないものです。

 この子どもの個体差やリズムを考えないで、ある理想的な健康観にとらわれ、或いは集団としての統率というような面を強く意識して保育してゆくとき、いろいろの歪みを生じてきます。例をあげればきりがない位あるが、最近問題とされている一つをあげると、「集団への埋没」という現象があります。集団生活の中では、それからはずれた子どもの場合はとかく問題にされますが、集団の中に埋没して、うずもれこんだ子どもの存在には注意が払われにくいものです。自分の要求をあらわそうとしない、目立たない、不活発な従順すぎる子どもは日常の保育上はそれほどの支障もなく、余り問題とされません。それどころか、『良い子』としてむしろ歓迎される傾向さえあります。しかし、これらの子どもの中に発育遅滞や固執した習癖をもった子が, 少なくありません。自分の要求や意志をはっきり表現できず、ただ大勢のおもむくままに従ってゆく主体性のない子どもは、個性を無視した集団保育の作り出した一つの悪いタイプだとして、集団より逸脱しがちな子どもはこういう子はすぐ問題として取り上げられるが、そういう子よりもむしろ問題として取り上げ、対極的、意図的に働きかける必要があると思います。

 第2に子どもの健康は常にその時の状態が最良であるだけでは意味がなくて、その後の人生を健康に過ごすのにどれだけ役立つかということが問題です。集団保育の欠点の1つは乳幼児がいろんな感染症にかかりやすいことがあげられます。抵抗力のない或いは弱い乳幼児を集団で保育すると、どうしてもいろいろの感染症におそわれ、家庭保育では経験しない多くの試練に子ども達はさらされざるを得ません。これは集団保育の宿命的な弱点と言わざるを得ませんが、最近では免疫学的な見地からその見方が段々と変わって来ています。

 すべての病気を避けようとする努力、軽い病気も何もかも薬や注射の力をかりて治そうとすることが、果たして本当にその人の健康に役立つかどうかということが改めて反省されてきています。子どもの時に大変病気をした人が、成人してからではほとんど病気もせず、活動的な人生を送っている例は多くあります。従来の保育所は安全第一主義をとり、出来るだけ病気を避ける方向にばかり留意していました。これは当然のことではあるけれども、医学的管理が充分行われることが前提条件ですが、病気についても余りにもこれを避けようとする努力ばかりでなく、軽い病気は経験をつませた方がよいのです。病気と闘う鍛錬も又人生の修行の一つだという位の積極的な考え方も今後は必要となってくるのではないかと思われます。こういう意味で、あらゆる病気に対して、予防接種を強制するとか、軽い病気でもすべて休園させてしまうというような保育所の処置については再考の余地があると思います。

 第3に健康はただ守ってやるだけではできあがりません。鍛錬をして健康を作り上げることが必要であり、子ども自身に自分の健康を勝ち取らせる努力をさせることが大切です。最近の子どもは身長、体重など急速にのび、体格は昔とは比べものにならぬ位によくなっています。しかし、体力という面では昔よりかえって劣っているように見えます。

 最近のスポーツクラブに入っても、すぐ止めてしまって長続きしない風潮、朝礼でちょっと先生の話が長いとばたばた倒れる児童、保健室がいつも忙しい高校、校医がついてゆかねば出来ないマラソンなどみるにつけても、健康は勝ち取るものだということを、子ども達に認識させ、訓練することがまず大切であることを痛感します。

 集団保育の弱点の一つは、この鍛錬の面が欠けることの多いことです。これは何よりも安全をモットーとした従来の保育所の運営方針からも自ずとそうなったでのでしょうし、安全な運動場を持てないという立地条件からのやむを得ない事情もあろうかと思われますが、古くから子どもは風の子と言われています。

 「日に当たれ、風に当たれ、一日一回は汗をかけ」という笹川教授の言葉は小児の保育に当たるものにとっても忘れてはならない標語であると思います。北欧では、特に用事がなくても防寒着を着込んで一日に一回は厳寒の屋外に出て、自然との厳しい戦いに体を慣らすのが一般的な習慣として身に付いているといいます。冷房、暖房の室内に閉じこもって、限られた床上の遊び、運動だけに終始していて、真の健康が望めるかどうか、幼児の死因のトップを占める事故死についても、今や環境の整備や教育によってのみ身を守ることは不可能であるとされ、子ども本人の機敏な対処が要求されています。鍛錬、訓練は今後、ますますその必要性、重大性を増すことでしょう。従来我が国の保育には、保育所だけでなく、一般的に言って、この鍛錬についてその必要性は認めながらも、一部の人々を除いて余り積極的な研究も指導もされていませんでした。諸外国の保育所の日課をみて、最も目につくことの一つはこの鍛錬のスケジュールの違いです。世界で最も進んだ保育所運営をしていると言われるソ連の日課をみると、この子どもの鍛錬が科学的にちゃんと体系づけられて子どもの毎日に取り入れられ、ただ漠然と戸外で遊ばすというのでなく、目標や方法が年齢によってきちんと指示されています。今後の我が国の保育にももっと体系だった鍛錬が取り入れられる必要があると思います。

 以上、主に健康の面からみた集団保育の今後の課題について三つの問題を取り上げた。

 今後の集団保育はますます増加の一路を辿り、年齢の拡大、保育時間の増加、保育対象の多様化など、子どもの健全育成にとって、もはや一部の子どもの問題ではなく、大きな基本的な命題として取り組まざるを得ないであろうと思われます。集団保育が保育に欠ける子どもを収容して、良い生活環境や栄養を与え、数々の病気から守ってやるという身体面の保護から始まり、ホスピタリズムという試練を経験して後は、身体面ばかりでなく精神面の発達にも重点をおいた保育へと進歩してきた歴史に、今後は集団の中でそれぞれが子どもの個性をいかに生かし、のばすか。又、心身両面についての発育発達を促進するにはどのように訓練と教育をすればよいかなど、従来のどちらかと言えば、保護的な立場に立つ集団保育が今後は積極的な内容を持ったものになってゆくであろうと思います。

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子どもの新しい健康管理        高知新聞


 子どもの健康管理も学問の進歩と共に、だんだんと変わっています。健康という観念そのものがWHOの定義で代表されるように、単に身体的に良好な状態であるというばかりでなく、精神的並びに社会的に良好な状態でなければならないと考えられるようになりましたので、健康管理も自然とその範囲が広まり、方法も変わってきたわけです。

 子どもの健康管理はすでに両親の結婚の時から始まっています。両親の持ついろんな遺伝因子の結合、それは複雑で未知の点の多い分野ですが、二人の間に作られる子どもの健康についてかなり決定的な力を持っていることは明らかです。更に妊娠中、子どもの側からいえば胎児期の健康管理が、生後のその子の健康に及ぼす影響について、出生前小児科学の進歩は次々とその重大さを指摘しています。そして出産、どの子も経験しなければならないこの試練が、時としてその子の一生に決定的な打撃を与えることはすでによく知られたことです。両親の身体的、精神的特徴や母親の妊娠中の健康状態、出産や新生児期の状態についてのくわしい観察と正確な記録、母子手帳の記入と活用が子どもの健康管理の重要な第一歩となるわけです。

 乳児の健康管理については、何回かの乳児検診が規定されていますし、特に必要を認められた場合には精密な検査が今年から公費によってほとんど無料で受けられるようになるなど、現在の制度を十分に活用すれば身体的な面では一応体制的には出来上がっていると言えます。しかし問題はその内容です。我が国の乳児の体位についての昭和四五年の厚生省の調査値の発表がありましたが、乳児の体位の向上はまことに目覚ましく、かつての約三〇年間の進歩をこの一〇年で果たしています。この加速度的な発達の伸びに遅れないのはもちろんですが、それだけでは充分ではありません。従来ややもすると、乳児については身体的な発達にばかり目を奪われて、精神発達の面についての観察・指導がなおざりにされていた感があります。これからはこの面の指導が重視されてゆくものと思います。最近の乳児は発育もよく、手入れもよく一見大変健康そうに見えますが、湿疹ができやすい、喘息様気管支炎にかかりやすいなど、本当の強さに欠ける点が気がかりです。肉体的にも精神的にも強くたくましい乳児に育て上げること、それには子どもの発達をよく理解し、枝葉末節にとらわれず、信念と自信を持って育ててゆく両親の育児態度の確立が大切です。乳児の健康管理は両親に始まり、両親に終わると言えるのです。

 共稼ぎの家庭が増え、乳児保育所に預けられる乳児が増えて来ましたが、乳児期からの集団保育については種々の問題があり、ことに精神的な面での歪みの発生については今後大きな問題としてとり上げられることでしょう。

 幼児期は、精神的にも大きな発達をとげる時期であるのに、この時期の管理体制は大変不十分です。精神面での健康管理は大変難しいものですが、子どもの発達についての正しい認識、正確な観察、神経質でないとりくみが最も大切なものです。育児書からの中途半端な知識や、子どもはこうでなくてはいけないという理想像にとらわれての育児は最も戒めなければなりません。個性を生かして、自立心に富み、情緒豊かな子どもに育て上げるよう心掛けましょう。これが幼児期の健康管理の要諦だと思います。更に激増する事故死についての注意と教育が望まれます。年齢に応じて適当な経験をつませてゆくことが大切です。又、従来は先天性障害や眼、耳鼻などの障害は大部分は成長を待って、就学前まで手術を延ばしていましたが、乳幼児期の発達の重大さがいろんな分野で次々と明らかになるにつれ、そこまで成長してからでは取り返しがつかなく、早期の治療を必要とするものが増え、なるべく早く専門医に受診することが望まれています。

 学問の進歩につれて、医学は細分され、一人の医師がその子の健康管理を充分に行うことは難しくなりました。それぞれの専門家や心理学者などの指導を受けることは、今後ますます大切になるでしょう。しかし、知識に乏しい母親のひとり合点はしばしば無駄であり、また弊害さえ生じます。もっと大切なことは、その専門医への受診の必要を発見、指導し、更に専門医より得られた知識を総合し、全人的に考え指導してくれる相談医を持つことです。西欧には古くよりその習慣がありますが、我が国では最近はますますその面での医師との結びつきがなくなっているのが残念です。体質、病歴その他何事にも精通してもらい、すべてを相談できる家庭医を持つこと、それが現代医学の進歩に遅れない子どもの健康管理の最も現実的な対策であると思うのです。

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